タイトルにも記載しましたが、神話の時代、奈良時代、戦国時代と、多くの時代にまつわるエピソードが残っている「全部盛り」のようなお寺です。
岩殿山に残る神話の時代のお話
出雲大社の御祭神である、大国主命(オオクニヌシノミコト)は多くの妻と、多くの子をもうけた神様です。
その数なんと、180柱(日本書紀では181柱)!
そして、その中でも最も有名な神様は建御名方神(タケナカタノカミ)でしょう!通称お諏訪様、諏訪大社の御祭神です。
大国主命と、糸魚川の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の間にこのお諏訪様が生まれたのがこの岩殿山の岩戸なのです!ちなみに、岩殿山は旧来は「岩戸山」という名称でした。
もちろん、この岩戸前にも諏訪神社があり、生まれた場所ということもあり、安産祈願に効果があるといわれています。
ちなみに、岩戸は今では崩落してしまっていますが、その岩の周りをまわったり、さらにその奥には胎内巡りもできる岩の隙間があります!
奈良時代の僧、行基菩薩が開祖
お寺としての明静院の始まりは、741年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院である国分寺を建立するために派遣された行基菩薩が上記の神話に感激して岩殿山にも一寺を建立し、妙徳院と名付けました。これが明静院の始まりです。
本来は釈迦三尊が安置されていましたが、今は重要文化財に指定されている平安時代の作とされ、現在は重要文化財になっている大日如来像が本尊となっています。
こちらの寺院は以前は真言宗の寺院でしたが、今は天台宗の寺院となっています。
これには次に紹介する上杉謙信の項目にも関わってきます。
上杉謙信公が大日如来を厚く信仰
武神とも呼ばれる上杉謙信公は幼少期から曹洞宗の林泉寺で学び、京都の臨済宗の寺院大徳寺で法名を授かり、晩年は真言宗を熱心に信仰したといわれています。
そのため、上杉謙信公は真言宗の寺院であったこちらの寺院に頻繁に通い、大日如来を深く信仰していました。
このお寺の裏手約20分の所に沖見城という春日山城の出城も築いていたと言います。
そして、遺言に林泉寺以外に、こちらにも墓を遺すよう遺言があったといいます。
Wikipediaの上杉謙信の項目などを見て頂くと、墓所の欄には「上杉家御廟(上杉家と共に会津、米沢と移動していった方の林泉寺)、春日山林泉寺、岩殿山明静院、高野山他」と記載されています。
江戸時代になってからも上杉謙信とこのお寺の繋がりが垣間見れます。
上杉謙信公のお墓を管理しているということで何石か授けられたという文書が残っているということです。
また、真言宗であった当寺院が今は天台宗に改宗した理由というのが、上越地域では上杉謙信のいわゆるファンが多く、上杉家が米沢に移った後も藩主以上に上杉家に帰属意識を持った人が多くいました。そこで、上杉謙信が信仰した真言宗を弾圧することになりました。それを逃れるために真言宗の寺院の多くは改宗を余儀なくされたとのことです。その結果、岩殿山も真言宗から天台宗に改宗することとなったのです。
※8月末に大阪府堺市の石材店を経営される方より、石の標柱が3本寄贈され、現在は石の標柱となります。
概要
岩殿山 明静院
新潟県上越市大字五智国分2111